2009年03月28日

結果的に麻生総理いじめをした朝日新聞

 月刊誌、WiLL四月号で朝日新聞社に勤め、定年されて文筆活動をされている本郷美則さんが、平成二十年十二月二十日、朝日新聞四面での記事を取り上げていらっしゃいました。新聞とはこんなもの、だから新聞を読まずネットでニュースを見、広告収入がネットに追い越されるんだと思うことが書いてあります。

 朝日新聞の記事は、麻生総理が東京渋谷のハローワークを訪れ、二十四歳の男性に麻生総理が、「何がやりたいか目的意識をはっきり出すようにしないと、就職というのは難しい」と声をかけ、これを聞いた民主党鳩山幹事長が記者会見で「誠に的外れだ」と非難したと記事になったそうです。

 麻生総理は国民に対して冷たいと思わせ、鳩山幹事長は暖かい印象を与える記事です。

 ですが事実は、職を探す二十四歳の若者は、「どんな職に就きたいのか」と麻生総理から尋ねられ、「六本木とかのお洒落な職場で働きたい」と答え、それに対して「何がやりたいか目的意識をはっきり出すようにしないと、就職というのは難しい」と麻生総理が言ったそうです。
 年配者が、考え方がまとまっていない若者に助言しているように聞こえ、決して傲慢でもなく諭す言葉にとれます。このやり取りを聞いて鳩山幹事長が「誠に的外れだ」と記者の質問に答えたのであれば、鳩山幹事長こそ的が何か知らない無知な人に思えます。

 生まれた時から坊ちゃんの麻生総理でなく、苦労して総理になられた方であればもっとよかったです。(今やそんな政治家は反主流でしょうが)

 朝日新聞が麻生総理の最初の言葉ををはしょって鳩山幹事長に伝え、それに「誠に的外れだ」と会見させたのであれば、本郷さんが言う「政治工作情報」(プロバガンダ)私的には朝日新聞による「やれせ」と感じてしまいます。

 中国ではオバマ大統領の就任演説から「屈服された共産主義」や、「腐敗と謀略、反対者の抑圧によって権力にしがみつく者たち」と中国の指導者に不都合な言葉を国民へ伝えなかったそうです。

 同じWiLLで水嶋総さんは、日本の共同通信が伝えたオバマ大統領の「我々の試練は新しいものかもしれない。それに立ち向かう手段も新しいものになるだろう。我々の成功は、勤勉、誠実、勇気、フェアプレー、寛容、好奇心、忠誠心、そして愛国心といった価値観にかかっている」という演説から「忠誠心」と「愛国心」を脱落させた翻訳で報道配信したといいます。意図的であれば報道社として言語道断、そうでなく単に翻訳忘れだったとしても、羅列された言葉の最後の一番大切な二つの言葉を報道出来なかったのは、報道社としての仕事の質が保てていない、低質となっている証拠と言える出来事です。

 漢字が読み違う内閣総理大臣が生まれる時代に相応しい、低質の報道各社ということでしょうか。

 こんな事だから誰も信じられ無い人が増え、唯我独尊的な事件が興るのでしょうか。


posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 18:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2008年05月08日

戦争が遺したもの

しばらく本を買っていなかったストレスから、五千円分の本を買いました。
月刊誌二冊
司馬遼太郎の龍馬かいく

9条どうでしょうなど




『9条どうでしょう』は何と無くのジャケト買いですが、内容は憲法九条改正反対の方四名がそれぞれ反対の理由を書かれています。

『憲法がこのままで何か問題でも?』と題して、内田樹さん
『改憲したら僕と一緒に兵隊になろう』と町山智浩さん
『三十六計、九条に如かす』小田嶋隆さん
『普通の国の寂しい夢-理想と現実が交錯した二十年の意味』平川克美さん

前書きでは、今までと違う憲法論の様にあったので、ワクワクしてみると、確かに違う部分がありましたが、やはり残念なところもありました。
この本は、小泉総理時代、郵政民営化選挙で大勝し、憲法改正に向かって世論が傾いたときに出版されて本です。
第3の立場からということでしたが、改正反対の立場であるとのには代わりがないので、そう納得できる意見ではありませんでした。

九条と自衛隊が矛盾しながらもあることで、抑制がなされている。
矛盾であるが矛盾では無い。

憲法は理想であるから、現実的でないことに矛盾はない

自衛隊と九条は共存できること、そして、六十年間共存できた現実があるので、それを大事にしなければいけない。
といったところです。

つまり、憲法九条は改正する必要ないし、自衛隊も今の立場でかまわないと言うご意見でしょうか。
わたしが、残念といったのは、私の九条改正賛成の根底にある、国民としての自衛隊の姿を大事にしなければいけないとの観点が無かったことです。

日本国憲法には、戦争放棄とともに、言論や宗教の自由、生きる権利なども保障しています。
職業選択の自由もあります。

国民の自由をうたった素晴らしい憲法だ、アメリカの押しつけでもあろうとそれを六十年間機能させてきたのだから、これからも変える必要はない。

ごもっともかもしれません。

九条には、武力行使の放棄と戦力の保持をしないとはっきりあります。
世界が日本のの自衛隊を見て、世界最新鋭のイージス艦をアメリカの次に多い数を持ち、機雷除去に素晴らしい技術を持ち、給油をできる船を持つ組織が、戦力ではないと強弁しても納得させることはできません。自衛隊という組織が、非合法なやくざみたいな組織であれば問題ないと考えますが、実際に身分を保障され、日本国民としての自衛隊員がいます。

戦力を保持しないと、それと、生きる権利を保障している憲法。
自衛隊員に対しては、明らかに矛盾しています。

自衛隊という職業についた日本国民とその家族に人権を憲法で保障したい。

9条改正反対の方々
そんな理由じゃ駄目ですかね。

著者のひとりである内田さんが本の内容について、ご自身のブログで紹介されていますのでリンクしておきます。


少し読み飽きて、文藝春秋社が発行する諸君!2008年6月号を見ます。

すると、朝日新聞出身の芝山哲也さんが『自民・民主”二大政党ごっこ”はGHQ統治の後遺症だ』の記事にふむふむ。

『9条どうでしょう』の著者の方々に、憲法ができたときに時代認識を少し間違っておられるのではと感じていたのですが、芝山さんが憲法ができたときに日本とアメリカについて、上手にその様子を紹介されていました。

その中で一番納得してしまったのは、GHQの行った検閲のことで、「陰の日本人検閲実働部隊」P101で

それはさておき、こうしたきめ細やかな細部の検閲のために英語に堪能な日本人約一万人が検閲官として雇用されており、実務レベルで文章に改竄や発行禁止を指示したのは日本人だった。日本人検閲官たちは、その後、政界、大学、経済界、放送界、マスコミ界などに進出して戦後日本の世論形成に影響力を発揮したと言われる。

その通りかもしれません。
だって土曜日のゴールデンタイムのテレビを見ても、お笑いとクイズとスポーツ番組のみ。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの話を聞いたときはまるで信じられなかったのですが、今の日本を見たときに、確実に日本人の心に刻み込まれていると思わなければいけないのかなと思ってしまいます。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムとはなんぞやとの方は、
WGIP(WGC:War Guilt Campaign)広報局
のページや『WGIP』で検索されるとざくざくでてきます。

9条どうでしょうの執筆者と、芝山さんの話の共通点は、

戦争に負けたときから日本は、アメリカにとって都合のよい友好国という名の属国である。

アメリカの従属する日本がいいのか、脱却しないといけないのか
それには大変革が必要なので、すぐに脱却と判断できませんが、今のにほんの様子を見て過去を振り返ったとき、今のままではいけないとは思います。
大変難しいことなのですが、9条どうでしょうを語られているような方々、ここを紹介いただいた自由主義史観研究会(代表藤岡信勝)さんたちや、もちろんお金持ちの弁護士先生福島みずほ率いる社会民主党日本共産党中央委員会の護憲王道の方々を含め、話していきたいです。

話さなければ、九条が必要かどうかの判断もできません。


戦後は終わっていませんねと実感しています。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 16:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2008年01月11日

埋め込まれていたイメージ(イースター島)

車の整理をしていて、本を持たずに仕事にでました。
今日も、時間を有効に使える催し物。
本がないのでどうしようと車の中を探し回って
「世界遺産・封印されたミステリー」という文庫本があったので読みました。


表紙には、「今なお解けない謎に迫る」とありましたが、迫るというよりもさわる程度の内容でしたが、それでも新たな発見。

イースター島のモアイ像の話
なぜ造られたのか、誰が造ったのか、古代の息吹を感じるロマンに思っていました。
しかしそれはロマンでも何でもありませんでした。
イースター島のモアイ像は、島の人々が六世紀頃から造り始め、敬意を持って大事にしていたそうです。
ちょうど筑紫の磐井の乱の頃でしょうか、
一番盛んだったのが十二世紀から十五世紀だったそうで、日本では豊かな文化が発展した平安時代から、鎌倉幕府、戦国時代の頃です。
そして、江戸時代の頃を最後に造られなくなってしまったそうです。
なぜモアイ像を島の人が造ったかはわからないそうですが、造られなくなった理由はわかっています。
それは、白人が島にやってきて、奴隷とするため島の人々を連れ去ったためです。
一万人ほどいたらしいイースター島の人々は、奴隷として連れ出すことが無くなった一八七七年には、一一一人だったそうです。
この時代は、日本にペリーの黒船が来航し、明治時代となったときと重なります。

イースター島に住む人たちが、古くからずっと造り続けた理由はあったのでしょう。
それが謎になった理由は、ロマンでも何でもなく、西欧列強国の白人による迫害のためでした。
白人以外を奴隷にして、非人道的な扱いをしたからでした。

日本が江戸時代から明治時代になったとき
同じ島国のイースター島では、西欧諸国から過酷な歴史を強いられていた事実を見れば、その時代の日本は西欧諸国に対して頑張っていたことがわかります。

結果的に悲惨な戦争へと突き進んでしまいましたが・・・
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 09:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2008年01月07日

淵田美津雄さんをご存知ですか?

皆さん仕事始めはなさいましたか?
私は昨年から、某ホールの音響技術者として業務委託を受けている関係上、仕事始めは官公庁に習って、四日からの仕事になりました。
音響の仕事には、大きく二つに分かれて「乗り込みさん」と呼ばれる音響機材一式持ち込んで本番が終われば撤収して帰る音響さんと「小屋守さん」と呼ばれるホールにある機材を使って行う音響とに分かれます。
以前会社に勤めていたときは、「乗り込みさん」ばかりでしたが、最近は不況なんでしょうか。
割かし普通の人からすれば多額の金額をもらう「乗り込みさん」の仕事はほとんど少なくなり、今は「小屋守さん」ばっかりです。
音響の技術的にはあまり面白くない小屋守さんですが、
「小屋守さん」の仕事でいいのは、重い音響機材を毎回運ばなくていいこと。
これは、四十超えた私には大変ありがたい。
悪いところは、退屈な仕事が多いこと。
シビアな音響を必要となる催しには「乗り込みさん」がくるので、「小屋守さん」は出番がなく、如何に時間をつぶすかが課題になります。
しかし、いるだけでお金になるという贅沢を使って、二日間で平成二十年最初の一冊を読みました。
その本は、

真珠湾攻撃総隊長の回想
淵田美津雄自叙伝(講談社)




とにかく面白かった。
私も知らなかったのですが、この淵田さんは、
「リメンバー・パールハーバー」のとき、三百六十機の日本軍飛行機の一番先頭を飛び作戦を指揮、トラトラトラと打電。
ミッドウェーでは戦場まで行ったけども、急に盲腸になり戦闘を指揮することがかなわず、乗っていた旗艦の空母赤城は沈没負傷しながらも帰還。
レイテ海戦では作戦を起草し、作戦は成功したけども、戦艦大和に武蔵といった戦艦を率いた栗太艦隊が連合艦隊司令部の命令を無視したために失敗。
広島原爆投下当日まで、爆心地近くにいる予定だったけども、前日命令により天理市に行き、被爆を逃れ調査団として、原爆投下翌日に爆心地に入り調査。
長崎原爆投下をされたと知らせが入れば、調査団として長崎へ。
直接被爆しなくとも、原爆投下直後に現地に入った人たちが亡くなったり原爆症に苦しめられたりする人が多くいる中で、この人は原爆症を発することがなかった。
そして終戦。
終戦後は、戦争に負けたのは、職業軍人が悪いと日本国民の世論が傾き、肩身の狭い思いをしながら、田舎で自給自足、家さえも自分で建てるような貧しい百姓の真似事生活。
東京裁判で証言したり、GHQに呼び出されたりで、偶然という名の必然で聖書に出会い、キリスト教へ回心。
クリスチャンとなってアメリカにわたり布教活動に勤め、かつての仇敵であった兵士から、ミニッツやハルゼーなどの指揮官、アイゼンハワーやトルーマンとも会談。

そんな方が自ら書かれた未完の自叙伝を、中田整一さんが本の形にされて去年出版されました。

何が面白かったかといえば、この本は自叙伝でありながら戦闘記録ともいえ、海軍の戦い方がわかるとともに、当時の日本海軍の強さと弱さの現実が同時に理解できます。
当時の海軍指導者を非難し、現実的に勝てないと理解されていたようです。
この本は、戦後の日本人が想像するあの戦争に対する思いも変わります。

淵田さんは、まさに波瀾万丈
経歴だけ見ると、理解できない人もいるのでしょうが私からすると本当に素晴らしい日本人です。

先の戦争を思うとき、戦争を回避する方法はなかったと思っていますが、もう少し戦争になる時期が遅れ、世代交代が行われ、戦争を指揮する立場の人たちが変わっていれば、原子爆弾投下をされるまで戦争が終わらせられなかった、悲劇の戦争にならなかった。

そんな気にさせられる昔の日本人の自叙伝でした。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年11月01日

価値観重視

昔を知りたいと思い、色々な本をよんだり、昔の話をテレビで取り上げるとき不満に思っていたのは、

過去の価値観を、現在の価値観で判断してる。

過去の話をするときは、その頃の人の気持ちになって話をしなければいけないと思います。
今の価値観を持って、昔の人はつまらん、こんな馬鹿のことやってと非難しますが、その時代の人は自分のできることを真剣に考えてやっていると思うので、非難するのはエゴだと思っていました。
そんなに思っているときに、そんな今の価値観やイメージにとらわれない人の書いた本を読みました。

水谷千秋さんの
謎の豪族 蘇我氏




この本は、現在の価値観やイメージではなく、蘇我氏側悪い人といわれているイメージににとらわれず、素直に日本書紀を研究してらっしゃるのに好感もてました。
(著者は私の二つくらい年上の人で、自分との差を情けなくなりましたが)

この本を買ったのはもう2年くらい前
北九州のプリンスホテルに仕事に行ったとき、ホテルの売店で売っていました。
別に蘇我氏を知っているわけでもなく、興味があるわけでもなかったのですが、なぜか買ってそのまま読むことなく過ぎ去っていました。

でもよんだらおもしろかった。


現代も続く天皇家の始まりは、今から千四百年前からは歴史に残っていることで、反論する人は少ないでしょう。
そして蘇我氏もその頃にあったひとで、天皇と同じ力を持っていたのに天皇の前で殺されてしまいます。
現代の価値観では、のぼせすぎて、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿は悪い人となっているそうです。

そのイメージにとらわれず、素直に研究され中立的に、書かれているのでよかったです。

今度は水谷さんの
謎の大王継体天皇



読んでみようと思います。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 23:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年08月14日

台湾のいもっ子

台湾のいもっ子とは、台湾の本省人といわれる人たちのことを言います。
元もと台湾に住む人々のことです。
台湾人は一八九五年から日本が負けるまでの五十年間。
日本の統治を受けます。
日本の敗戦により、日本の統治から解放されるます。
日本に勝利した蒋介石率いる国民党は、その後毛沢東の共産党軍に負け中国を追われることとなり、台湾へ逃げ延びます。
この人たちは外省人といいます。
台湾の人は、蒋介石の国民党と共生するのではなく、支配されることになります。
日本からの占領が終わった台湾は、今度は国民党の中国人に支配されたのです。
そして台湾のいもっ子は迫害されることになります。
迫害というのは、共産主義に関する思想を持ち、共産主義に染めようとする運動はもちろんのこと、書物を読んだだけでも牢屋に入れられます。
そして、共産思想など持たない人でも、逮捕された人から共産主義者だと密告されると、共産主義者として疑われて逮捕され、一度逮捕されると無事にでることなど不可能に近い、そんな時代が長く続くのです。

そんな牢屋での迫害の実体験を語った本があります。
『台湾のいもっ子』蔡 徳本著 角川学芸出版2007年2月28日初版





作者は共産主義でもなく、その疑いをかけられないように細心の注意を払っていましたが、知人の密告により逮捕されます。
その内容は非人道的な出来事の連続ですが、十三ヶ月でもとの生活に戻ります。
台湾のいもっ子が十三ヶ月間の獄中生活で済んだということは奇跡です。
この本の中にある台湾の現実は凄まじいものがあります。
日本人として共に戦争を戦った台湾のいもっ子。
日本が敗戦から立ち上がり、経済大国になっていた同じ時期にかつて日本人とされた人々は迫害を受けていたのです。
戒厳令は三七年八ヶ月続いたことになるそうです。

本の帯にあります。
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日本人は知る義務がある!!
かつての同胞(いもっ子)の苦難の日々を
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その間、日本は毛沢東と国交を回復し、台湾は中国の一部という言い分を認めています。
その間、この本にあるような出来事が起こっていたことを、かつて台湾を支配していた日本人は知っていなければいけないと思います。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 13:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年08月06日

原爆以外にも戦争を考えて欲しい

今日は原爆が落とされた日になります。
テレビでは、悲しい雰囲気を醸し出そうとみなさん頑張っています。
しかしそれらは、正確に戦争を伝えているようには思えません。

宮城晴美さんが著された「母が遺したもの」(高文研)を読みました。

集団自決については、慶良間諸島の渡嘉敷島と座間味島で隊長の命令により集団自決したという事になっていました。
宮城さんの母、宮城初枝さんも手榴弾で集団自決を行いましたが、玉砕かなわず生き残り、隊長命令による集団自決だったと証言した人です。

昭和二十年三月二十五日
初枝さんはアメリカ軍の空襲の後、晴美さんが”鳥をさばくのに牛刀を用いる”と表現された、凄まじい艦砲射撃が続き、明日にもアメリカ軍が上陸するかもしれないと皆が感じていたその夜、
座間味島の守備隊長、梅澤裕隊長の元に、村の助役らと共に訪れます。
そこで助役が「もはや最後の時が来ました。私たちも精根つくして軍に協力いたします。それで若者たちは軍に協力させ老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前でさせようと思いますので弾薬をください」と言いに行きます。
しかし隊長は銃弾を渡すことなく、そのまま「今晩は一応お帰りください。お帰りください」といいます。
しかしその夜、村民の玉砕、つまり集団自決が起こるのです。
それを目撃していましたが、初枝さん自身はその時玉砕しません。
やらなければいけないことがあったからです。
皆が玉砕した後、兵隊さんのお手伝いをしますが、帰らない兵隊さんを死んだと思い、宮城初枝さんは友人五人と玉砕の覚悟を決め、手榴弾を爆発させます。
ですが手榴弾は爆発せず、玉砕はなりませんでした。

戦後、渡嘉敷島と同じ理由で、初枝さんは「隊長の命令であった」と証言するのです。
命令したところを見ていなかったのに・・・

集団自決でなくなった方の三十三回忌の時、出版社の取材のために座間味島に戻った娘さんである著者の宮城晴美さんへ「隊長命令ではなかった」と語ります。


壮絶な体験をし、生き残り、「隊長の命令だった」と嘘の証言し隊長の名誉を傷つけ、戦争の語り部となり、嘘の証言を撤回しますが、それかがまた更なる悲しみを生む結果となってしまいました。

座間味島で起こった集団自決。
渡嘉敷島で起こった集団自決。
「慶良間諸島で起こった集団自決」と同じに片づけられます。
集団自決が起きたその夜、隊長による命令がなかったのも同じ。
無かったのにあったとした理由も同じ。
同じに見える二つの島での集団自決。
集団自決をしなければいけないと住民が思った理由も同じ理由です。

南ののどかな島に、兵隊さんがやってきて、村民と兵隊さんは共に戦争を戦います。
そして目の前で、皆が死んでいくのです。
慶良間の陸軍の兵隊さんの任務は、自動車のエンジンをつけたベニヤの船に機雷を二つ積み、夜の闇夜に近寄り爆発させ、アメリカの艦隊を沈没させることでした。

特攻です。

しかも皆、二十歳未満の志願兵です。
志願といっても特攻を志願したわけでなく、任務が特攻だったのです。
特攻であること聞かされますが、兵隊さんは逃げることなく、その任務を受け入れます。
実際島では、いざ作戦の好機のときがありました。
運悪く(運良く?)ある上官の視察中で、上官が自分の命惜しさでとった行為で任務を果たせなくなってしまいます。
兵隊さんは武器はそのベニヤボートだけですから、陸上戦をする兵器などは持っていません。
しかし上陸したアメリカ軍に切り込みをしていきます。
実際の戦いに入る前の住民と若い兵隊さんの関係は、演芸大会をやったり、寝食を共し、兵隊さんは島の人をお母さんと呼びます。
お母さんと呼んでいた兵隊さんは、島のお母さんの目の前で死んでいきます。
戦えなくなった兵隊さんは、目の前で自ら命を絶っていきます。

なぜ集団自決に至る経緯は、宮城さんがあえて『玉砕』という言葉を使っていることでわかります。
この本では玉砕に至るまでを、宮城さんの母初枝さんの手記(日記)からよくわかります。
平成の平和の中に生きる者たちには絶対理解できないような出来事が六十二年前に、南の美しい小さな島で起こっていたのです。

守備隊長の戦後の生き方も全く違います。
渡嘉敷島の隊長の戦後の行動には共感を持てますが、座間味島の隊長が初枝さんと出会っておこなったことも、渡嘉敷島の隊長がおこなったことも『まさに日本陸軍』です。

集団自決が、隊長命令であった、無かったより大事なのはこの島での戦争の様子です。
死んだ者も、生き残った者も、死んだ者の家族もそれぞれが戦い、戦後を生きます。

それを私たちはよく知りません。
学校でもその様子は伝えません。
この時期、平和事業や平和を訴える番組が多くありますが、戦争の様子を正しく伝えているとはとても思えません。

この本では、隊長命令がなかったとしたことより、南の美しい島で、兵隊さんと島民がどんな戦いをしたかよくわかります。
その悲惨さは、原爆を落とされた人も集団自決をした人も変わりません。



曾野綾子さんの『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』





そしてこの宮城晴美さんの『母が遺したもの』




集団自決から見えてくれる私たちが知らない戦争を教えてくれます。
特に宮城さんの本は、難しい言葉を使っていらっしゃいませんので、普段本をあまり読まれない方にもお勧めです。


是非読んでください。
今の日本では、本で知るしか戦争の真実は見えてきませんから
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 13:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年07月26日

7月号、読み返しました。

文藝春秋2005年7月号では慰霊碑に対する日本政府の対応について言っています。
同じ戦争にしたにもかかわらず、日本は慰霊碑を建設するどころか、民間で建てた慰霊碑についても全く関心を持っていなく、民間の人の限られた力で持続していること。
それは同じ時期に戦死者を出したイギリス、ドイツ、イタリアはできる限り戦没者の氏名等を文字で残し、またその慰霊碑の維持管理を美しくやっていること。
アメリカでも、海外の永久墓地や記念碑の、維持管理で毎年三億ドルの予算を組んでいること。
それに比べ、日本国は厚生省社会・援護局が平成十五年度から三カ年、
一年で千八百万の予算をくみ民間が建てた慰霊碑の調査を
偕行社(http://www.kaikosha.or.jp/
太平洋戦没者慰霊協会(http://homepage3.nifty.com/pwm/)に依頼し行っただけと紹介しています。

多くの批判を受けたような12月号の記事については、また今から読み返します。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 00:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年07月25日

「女ひとり・・」を読中

ふと、笹幸恵さんという人が気になって、グーグルで「笹幸恵」を検索しました。
するとこの人の記事を読んだことがあるのがわかりました。
文藝春秋2005年7月号で『ガダルカナル見捨てられた英霊』
2005年12月号『「バターン死の行進」女ひとりで踏破』という題名でした。
その12月号の記事では、アメリカ退役軍人から抗議を受け、日本でも多少のバッシングを受けたようです。
ちなみに、検索かけてでてきたページの一位はこちら
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C673208941/E20060222181911/index.html
二位は色々問題なネットの百科事典ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%B9%B8%E6%81%B5
三位は、最低の旅行記といってしまったこのページ
http://yoshitokappa.at.webry.info/200606/article_2.html

早速積み上げた月刊誌を探し読み返してみます。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

ニュージョージア島ムンダにある「トコロ・ヒル」

『女ひとり玉砕の島を行く』笹幸恵(ささゆきえ)著文藝春秋
第二章「数奇の島−ニュージョージア島ムンダ」で紹介されていたのですが、日本軍激戦の地であった丘に、「トコロ・ヒル」と名付けられている丘があるそうです。

なぜそう呼ばれるようになったのかは、多くの偶然が必然となったような出来事に由来します。
その由来となったのは、京都産業大学の所功(ところいさお)教授が戦争でなくなった父のところ行くと決意したところから始まります。
ムンダで父親が戦死したことを知らせる戦死公報が届いたのは、所さんがまだ二歳に満たない時。
所さんは、昭和四十七年、グアムから横井庄一さんが帰国した時、「父が私を待っているのかもしれない」と思いムンダへ行くことを決意します。
父親の享年と同じ三十歳のときです。
下宿先にはテレビも電話もなかった所さんが、向かいのたばこ屋で電話していると、そこでふと見たテレビで、全国ソロモン会が遺骨の収集に行く事を知ります。
全国ソロモン会(http://www2.gizo.net/solomon/)の連絡先を探し回り、やっと連絡が取れ、所さんは、父親が戦死したニュージョージア島ムンダへ行くこととなります。
現地では、生還者が残してくれた地図を手がかりにジャングルを進み、父が戦った陣地後らしきものを発見します。
そこには、手榴弾、水筒、歩兵銃などが散乱していました。
そこで、一緒に同行した方が『所』と名前が刻まれた飯ごうを見つけます。
父親が所属した隊の同姓はいません。
父親の飯ごうを見つけることができたのです。
そして翌日そこを掘ると、大腿骨らしい骨を見つけます。

所さんは、父親の三十年目の命日に父親と同じ三十歳で再会するのです。
それからこの丘は、「トコロ・ヒル」と呼ばれているそうです。

笹さんは、後一つ、偶然の重なりから遺骨が見つかった例をこの章で紹介しています。

遺骨の収集は困難なんだそうです。厚生省は遺骨が確実にあると情報がなければ、遺骨収集をしないそうです。
現地の人が、遺骨を展示し観光客からお金を取っている場合もあるので、遺骨を引き渡す見返りを要求する場合もあり、遺骨の収集は進まないそうです。
南方で戦い死んでいった、私たちのおじいちゃん、ひいおじいちゃんたちは、異国の地で骨さえ探してもらえない現実です。

日本は悪い戦争をした言いますが、無謀な戦争をしたといいますが、九条がなくなると戦争になるといいますが、

国と国で戦う戦争も、私たちのおじいちゃん、ひいおじいちゃんが、普通の人が戦いました。
特に南方の島に戦いにでた人は、国から食糧も武器も補給されないのに、戦い抜きました。
日本に残したこどもさんの顔も見ず死んだ人もいれば、前線にいながら生き残った人もいます。
生き残った人は、死んでいった戦友に申し訳ないという気持ちで過ごしている人もいます。
生き残った人にとっての戦争は、身近すぎて語ることさえ辛いことだろうと思います。

笹さんが一緒に旅をされた方々は、自ら旅費を捻出し、死んだ戦友のため、遺族を含め戦友を助けにでる気持ちで行かれています。
それにより、所さんのように、奇跡とも言える見たことがない父親との再会もあります。
そんな思いが奇跡を起こすのでしょう。
けど、そんな慰霊の旅も、ただの旅行です。
援助があるわけもなく、後ろ盾があるわけでもありません。


せめて遺骨の収集は国でどうにかできないものでしょうか。
人権と平和をスローガンにしている人たちも、戦死公報という紙一枚で父の死を知らされた遺族の方々に遺骨を届け、祖先代々のお墓に入れてあげようとすることはできないのでしょうか。
間違っていた無謀な戦争だったとしても、実際に戦った人たちは普通の人です。
本当の人権とは、そんなところにあるのではないのでしょうか。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 20:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

女ひとり玉砕の島を行く

こんなタイトルの本を買いました。
著者は笹幸恵(ささゆきえ)さん文芸春秋から出版
http://www.bunshun.co.jp/book_db/3/69/11/9784163691107.shtml


最近は昭和の戦争についての本ばかり読んでいて、この本のタイトルには惹かれるものがありました。
『女ひとり』とくれば、続く言葉は『日本海』でしょう。
しかしそれに続く言葉が『玉砕の島』とは、なんだこの人は・・・と思ってしまいます。
表紙はシンプルに、笹さんのスナップ写真とタイトルだけ、
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しかしスナップの背景は、多分行かれた玉砕の島でのものでしょう。
タイトルのアンバランスさに比例した、スナップ写真

著者の笹さんは昭和四十九年(1974年)生まれ
およそ二年間、南方で戦った元日本兵と共に、戦跡を巡った旅の記録を書かれた本です。


【 二〇〇五年一月二十二日。この世に生を享けて三十年と三ヶ月たったその日、私はガダルカナル島への旅から帰ってきた。
  八十歳以上の元日本軍将兵たちとの十五日間の旅。
 それは、私のこれまでの三十年間のどんな出来事よりも鮮烈な体験だった。】


【 私たちの世代は、学校の授業で「日本は無謀な戦争を始めた」とだけ教えられてきた。だが年齢を重ねると、別の疑問もでてくる。本当に日本は無謀とわかっていて戦争を始めたのか?無謀とわかっている戦争など、誰も賛成し、参加するはずはないではないか。無謀とは思わない何かを信じたから、狂熱のような戦いに引きずり込まれたのではなかったか?】


【「われわれは我々の祖国を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう。負けたらすぐ悪かったと本当に思うほどその信念はたよりなかったのか。それともただ主人の命令だったから悪いと知りつつ戦ったのか。負けたらすぐ勝者のご機嫌をとるのか。そういう人は奴隷であってサムライではない。われわれは多くの戦友をこのビルマ戦線で失った。私はかれらが奴隷と戦って死んだとは思いたくない。私たちは日本のサムライと戦って勝ったことを誇りとしているのだ。そういう情けないことは言ってくれるな」

この日本の将校と英軍中尉のやりとりは、私がこれまで自分が受けてきた十数年の教育の根底から覆した。
−−−自分で何とか学ばなければいけない。私たちの父祖の本当の歴史を。】


【 元兵士の一人は、私にこう語ってくれた。
「死ぬのは早い。おまえにはまだやることが残っているだろう。そんな戦友たちの声が聞こえるんです」
 年金をやりくりして貯めたお金で、慰霊の旅に出かける老兵たちの姿を見ていると、それはどの人たちにも共通した思いのような気がする。それほどまでに彼らを奮い立たせるものとは、いったい何なのか。
 彼らの思いの少しでも寄り添ってみたい。それを通して、私たちの父祖たちがどんな思いで戦い、死んでいったのか、少しずつ見えてくるのではないか。
 当時の出来事、当時の人々の思いを知る。私にとってそれはまた、自分が何者かを知る旅でもあった。】




『はじめに』の題で書き出されている前書きですが、素直に自分の言葉で自分の気持ちを表現する笹さんの素直な言葉に、素直に共感しました。

一気読みしそうです。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 19:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

2007年07月22日

イラクで亡くなったジャーナリストが残したもの

アメリカが仕掛けたイラクへの攻撃
アメリカ人は、世界貿易センターへの特攻を、真珠湾攻撃以来のアメリカ本国への攻撃とみなしたように、イラクへ軍事行動を起こしました。
フセインを始末することには成功しましたが、その後の占領については、過去の日本に行われた占領政策のようにはうまくいきませんでした。
その混乱の中、橋田伸介さんとその甥である小川功太郎さんというジャーナリストが亡くなりました。
その後すぐ、奥さんである橋田幸子さんは『モハマド君募金』をたちあげ募金を集め、夫の遺志を受け継ぐかたちで、イラクで負傷したモハマド君の左目を日本で治療させました。
平成十六年に『橋田メモリアル・モハマドくん基金』に移行し、平成十八年七月に陸上自衛隊が派遣されていた、サマワに二百五十名収容できる孤児院を、埼玉県のライオンズ。クラブに協力する形で建設されたそうです。
そして今年は、イラクのファルージャ総合病院の女性のお医者さんお二方を、日本へ招き、医療研修をうけさせることができたそうです。
イスラムの国の女性は、人前に肌をさらすことは許されていません。
女性の身体を診ることができるのは、同じ女性のお医者さんでなければいけませんので、女性を救えるのは、女性のお医者さんです。
女性のお医者さんが増えれば、それだけ女性が救われるといってらっしゃいました。
日本に来た女性のお医者さんは「絶望の中、医療研修の話があったとき、とても嬉しかった。」といっていたそうですが、「いいことだな」と思いながらも、
「なぜモハマド君という一個人だったのだろう」
「なぜ医療研修は女性だったのだろう」の思いを持ったり、
老朽化したファルージャ総合病院の建て替えで、産婦人科病棟と小児科病棟を橋田さんの基金が請け負うことになっていると聞けば
「募金てそんなに多くのお金が集まったのか」とか、色々な下衆な考えが浮かんできます。
独りよがりっぽい、いい日となりたい人が増えてきていると思っている郁朗は、『橋田メモリアル・モハマドくん基金』という名前に、「なぜモハマド君という固有名詞が残っているのだろう、『橋田メモリアル基金』のほうがよさそうな気がするけど」と思ってしまいました。

正論(フジサンケイグループです。)http://www.sankei.co.jp/seiron/
2007年8月号に橋田幸子さんが書いてあった記事を読んでのとですが、いいことだなーとの思いと、偽善者みたいな匂いを感じるなーと思った記事でした。
posted by 五十鈴屋こと井上龍夫 at 21:20 | Comment(1) | TrackBack(0) | 本を読んでみつけたこと

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